ガーデニングエッセイ 第11話 私たちはどんな花に親しんで来たか。その4

長崎出島博物館の渡来草花の展示

長崎出島博物館、渡来草花の展示2

以前、長崎出島博物館で見た渡来植物の展示です。植物の展示物は、展示のために作られた標本ですが、とても判り易く展示しています。鎖国していた江戸時代、唯一外国に開かれていた出島に、オランダ船は毎年2隻(1隻600トン)の入港しか認められていないため、貴重品しか輸入されませんでした。オランダ船はインドネシアのバタビアからヨーロッパ製品と、広東と台湾から中国製品を積んで来ます。一番多い輸入品はバラストとして船底に積まれた砂糖ですが、生糸、織物も多く、少量の、朱、皮革、望遠鏡、地球儀、書籍、医療用器具、ガラス製品も輸入されました。一方、輸出品は銅、銀、金、磁器、漆器、醤油、酒、樟脳でした。楠から作る樟脳は、防虫剤と鎮痛剤としてヨーロッパで流通する樟脳の全てが薩摩産でした。

このような貴重な輸入品の中に、草花の種子や球根が含まれていました。ウコン、マリーゴールド、オジギソウ、ダリア、シロツメグサ、チコリ、ゼニアオイ、キンレンカ、ストック、キンギョソウ、オシロイバナ、カラー、サボテン、ヒマワリ、水仙、千日紅、時計草、チューリップ、カーネーションなどです。

大航海時代によって、ヨーロッパ、新大陸、アジアが繋がり、ポルトガル船によってトウモロコシ、カボチャが渡来し、また幕府を退いた英国人アダムスがサツマイモ平戸に持ち込み、更に出島にオランダ人が食用として持ち込んだジャガイモ、イチゴ、トマト、セロリ、キャベツ、パイナップル、アスパラガスなど食用植物は普及しましたが、渡来植物の草花はあまり広がらなかったと思われます。芭蕉の「奥の細道」や「野ざらし紀行」に登場する植物や花も、これら渡来の一年草は登場せず平安期と変わりません。

江戸期は8代将軍吉宗は、上野寛永寺、王子の飛鳥山、墨田川堤、御殿山など、今にも伝わるサクラの名所を作りました。更に柳沢吉保の六義園に代表される大名の大規模庭園の造成が行われ、参勤交代の大名はじめ江戸市民、武士の間で盆栽、花鉢物、葉物植物が流行し、庭園樹木、鑑賞用の古典植物など膨大な需要を呼びました。これらは染井村を初め江戸近郊で作られました。また椿、菊、ツツジ、日本桜草、芍薬、牡丹、杜若、朝顔、カエデ、松葉蘭、万年青、千両、万両、セッコク、花菖蒲など古典植物などの花卉園芸につい希少品種が愛好され、希少品種は高値を呼び、千両、万両など相場を表す品種名まで産まれました。江戸の古典植物については多くの資料が残っていますが、古典植物は庭の素材というより鉢物で栽培され、盆栽と同じように個々の鉢植えで世界を形作っていました。ガーデニングエッセイではガーデン素材として関連する植物について記しているため、ここでは古典植物については触れません。

江戸末期、開国したばかりの江戸染井村を訪れた英国の植物学者ロバート・フォーチュンはその著書「江戸と北京」の中で染井村がロンドンにもないほどの規模のガーデンセンターであることに驚き、温室がないにも関わらず南米産のアロエやサボテンを、更にホクシャまで売られていることに驚きの記述をしています。このフォーチュンの記述から、我が国が江戸時代からガーデニング大国であったと言う学者がいますが、それは園芸大国と言うべきであって、その当時緯度の高いロンドンでは植物の種類は限られていて、シダやアオキが珍重されていたことを考えると、気候に恵まれた我が国の植物の豊富さに驚くに値しません。

平戸オランダ商館の更紗

ヨーロッパ産更紗を貼った文箱

平戸オランダ商館や長崎出島博物館には、当時のジャワ更紗が展示されています。更紗は花や植物や鳥などをモチーフとしたインド発祥の木綿のプリント地で、室町時代に輸入され、そのエキゾチックな美しさに、茶人などが茶道具の包みに利用し珍重されました。更紗のモチーフはジャワ更紗、ペルシャ更紗など各地に広がり、平戸英国館長コックスは将軍秀忠の献上品の布に毛織物の羅紗と共に、更紗を献上しました。出島博物館の更紗文箱はヨーロッパで作られた更紗を日本で貼って仕上げた文箱です。いつの時代にも、人々は、未だ見ぬ自国にないデザインのエキゾチックな舶来ものに魅了されてきました。それが手に入れにくデザインの優れた希少品であれば、より魅了されて来たのです。

中世までの西洋画はキリストや神話のモチーフが大半で、近世になって初めて風景が登場し、それが愛好されるようになったのは19世紀になってからです。一方我が国の人々は、平安時代以来、花や植物に啓発され、花鳥風月は日常的なものとして和歌や俳句で詠まれ、また掛け軸のモチーフや生け花などで表現されてきました。また神仙が宿る山岳や深山渓谷などは、山水画のモチーフとなって表現されてきました。着物の柄や文様のモチーフは当然のごとく多彩な草花が主流でした。上記文箱を見るように、私たち日本人は高度な絹織物の凝ったデザインの和服に親しんでいたにも関わらず、簡素なコットンのジャワ更紗に魅了されてしまうのは、何時の時代にも、自国にない植物のエキゾチックなデザインに魅了されてしまうのかも知れません。

幕末、明治にかけての開国した際も、私たちは未だ見ぬ外国の文物や風俗、文化などに刺激を受けました。江戸期まで華麗な障壁画や墨絵の山水画の影響を受けて自然の風景を認識していたものが、遠近法や多彩な色など近代になって発展した油彩絵画によって、多彩な自然の風景を認識するようになりました。

明治になると現在のガーデニングを賑わす、華やかなな草花たちが渡来して来ました。ジキタリス、スイートピー、ネモフィラ、パンジー、百日草、松葉ボタン、矢車草、ラベンンダー、バーベナ、ニゲラ、デルフィニューム、リナリヤ、ルピナス、忘れなぐさ等ですが、これらは初期には種子として試験的に導入されたもので、それほど一般に普及したかどうかは判りません。庭と言えば平安時代以来の日本庭園の美意識の強い影響で、カラフルな草花の入る余地は無かったのかも知れません。また庭は家主のDIYで作るものでなく、熟練した庭師や植木職人がつくることが伝承されていたたため、庭の西洋化は遅れたのでしょう。

昨年友人たちと句会で早稲田に出来た新宿区立漱石記念館を訪れました。記念館の庭には、漱石の小説に登場する植物が植えられており、西欧文明を浴びた文人の庭に、どんな植物があったか、興味深く見ることができました。平安期から庭園では植栽の記録はほとんどありません。漱石の庭に植えられていた樹木は、染井吉野、松、寒椿、ボケ、金木犀、霧島ツツジ、ウメモドキ、芭蕉、果樹ではナツメ、ザクロ、柿、栗、イチジク、草では木賊、撫子、そしてバラが植えられていました。草花は小説に登場してこないので、最小限の品種しか植えられていませんが、当時植えられていたのは、恐らく上記の渡来草花でなく、古来の宿根草だったと思われます。バラは品種が判らず便宜上当時無かったアプリコットのHTが植えられていました。

草花の導入された歴史を振り返ると、私たちが親しんでいる一年草が、種子でなく、すべて花苗として普及し始めたのは、つい近年におけるガーデニング勃興時だったと確認ができます。私たちが秋に植えて冬の間、楽しんでいるパンジーやビオラも、30年前は春にならないと買えなかったのです。我が国の歴史の中でやはり平成は住宅の庭が大きく変わった時代だったのでしょう。

 


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